Robin day

ロビン・デイ|1915 - 2010

 
ドローイングをするロビン・デイ
略歴
ロビン・デイ(Robin Day、1915年5月25日 - 2010年11月9日)は20世紀を代表するイギリスの家具デザイナーで、70年に及ぶ長いキャリアを持っている。工業デザイナー、インテリアデザイナーとして活躍する一方、グラフィックや展覧会の分野でも活躍した。 英国のイームズと称され、英国の大手家具メーカーhille社と共に制作した作品の数々は現在も高く評価されている。
ハイウィカムにあるロビン・デイの生家。右から2番目の家で暮らした。
幼少期
ロビン・デイは1915年5月25日、警察官の父、アーサー・デイと裁縫が得意な母、メアリーのもとに、4人兄弟の2番目として生まれました。デイ一家は、バッキンガムシャーの家具製造の町、ハイウィカムに住んでおり、家具にゆかりの深いこの町で幼少期を過ごしたことが、ロビン・デイの将来の職業選択に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。ロビン・デイは幼い頃から絵を描く才能があり、10代で風景画の水彩画を描き始めました。青年期にはハイウィカム周辺のブナ林を散歩したり、木に登ったりして過ごしていました。
ロビン・デイの父(真ん中)、警察になる前は鉄道会社で働いていた
学生時代
ロビン・デイは慢性喘息で小学校に通えませんでしたが、両親は彼の芸術的才能が並外れていることに気づき、1928年にハイウィカム技術研究所に入学させました。デッサンで好成績を残したロビン・デイは、3年後、奨学金を得て、隣接するハイウィカム美術学校の上級美術科で学びました。
ハイウィカム美術学校の授業は、主に地元の家具工場で働く製図技師を育てるためのものでした。ロビン・デイはここで、製図やイラストレーションなどのスキルを身につけました。実践的な授業は、キャビネットメイキング、チェアメイキング、メタルワークの3つを中心に行われ、将来への確かな基礎となりました。しかし、地元の工場が主にリプロダクト家具に集中していたため、学校でのデザインに対する意識はあまり高くはありませんでした。
RCA在学時のデイズ夫妻
町工場で働く
卒業後の1933年、ロビン・デイは地元の家具工場の製図室で働きました。工場では、安価なダイニング家具や、fireside chair (暖炉の側に置くイギリスの伝統的な椅子)など、彼の好みとはかけ離れた伝統的なスタイルの家具が作られていました。ここでの彼の仕事は、既存のデザインに手を加えることと原寸大の設計図を作成することでした。この頃、ロビン・デイは、ハイウィカムで最も有名な工場のひとつであるアーコール社からデザイナーとしての仕事の依頼を受けました。しかし、同時期に、芸術とデザイン分野で最も権威のある大学、RCAから奨学金を授与されており、結局、二方向からのラブコールから後者を選び、1934年、RCAに入学しました。
RCA
工業デザインとインテリアデザインの専門家を目指してRCAに入学したロビン・デイでしたが、実際に入学してみると、不運なことに、これらの分野の専門家は一人もいませんでした。そのため、ロビン・デイは、RCA在学中、デザインをほとんど独学で学びました。例えば、博物館(V&A)や王立英国建築家協会(RIBA)の図書館で本や雑誌に目を通し、定期的に展示会にも足を運びました。英国産業見本市や英国家具連盟見本市などの見本市も重要で、さらにブロムリーのヒールズやダンズなどの先進的なショップや、ゴードン・ラッセルなどの家具ショールームにも頻繁に足を運んだといいます。
RCA卒業時のロビン・デイ
RCA卒業後
RCAを1938年に卒業すると、ロビン・デイはデザインで生計を立てることを目指しました。しかし戦争の勃発により、会社設立の夢は叶わず、フリーランスで、建築家のための図面や模型の制作、看板、ファッションブティックのショーケースの制作などを行いました。また、収入を補うために、ベッケナム・スクール・オブ・アートで非常勤講師の職を得ました。ここでの彼の仕事は、コラージュやフォトモンタージュなどの技法とドローイングを学生たちに教えることでした。校長のジョン・コールは、ロビン・デイの指導力を高く評価し、彼のために3次元デザインのコースを新設しました。ジョン・コールは、ロビン・デイが木や針金、プラスチックで小さな構造物を作りながら、学生たちにプロダクトデザインを紹介する方法に特に感心していました。やがて、ロビン・デイの講座への需要が高まり、助手がつくことになりましたが、そこで出会ったのがクライヴ・ラティマーで、ロビン・デイは後にこのクライヴ・ラティマーと作品を共同制作し、1948年に国際低コスト家具コンテストで入賞するすることになります。
RCA在学時、俳優活動をしていたルシエンヌ・デイ
写真左、椅子に座る男性の隣。
妻、ルシエンヌ・デイとの出会い
1934年から1938年にかけてロビン・デイがRCAで過ごした最終学年と、同じくRCAに入学したルシエンヌ・デイの1年目は重なっていましたが、大学は多くの場所に分かれていたため、当時、実際に二人が出会うことはありませんでした。ロビン・デイが卒業してから約2年後の1940年3月、大学のダンスパーティーでようやく2人は出会いました。工業デザインとテキスタイルデザインという異なる領域で学ぶ二人でしたが、モダンデザインへの情熱という点ではお互いに一致していました。初めて会ったその日から夜通しデザインについて語り明かし、すぐに意気投合した二人は、この時、お互いにデザインの道に進む決意を固めました。当時は、美術学校を卒業した人の多くが実務に就くよりも教職に就いていたため、このような決意は特に女性にとっては非常に珍しいことでした。「もしロビンに出会わなかったら、同じような進路を選んだかどうか、とても疑問です」と、ルシエンヌ・デイは後に語ります。
アパート、後に「Hillestak」 として販売される自作の椅子
結婚と同棲
1942年、二人は結婚し、チェルシー地区にあるマーカム・スクエア33番地のメゾネットタイプのアパートに住まいを構えました。まだ所得の低い新婚夫婦は、戦時中の家具不足も相まって、工夫して家具を賄う他ありませんでした。たとえば古いドアに銅管の脚をつけてテーブル代わりにしたり、やかんの蒸気を使って背もたれに曲木加工を施した自作の椅子を使ったりしました。特にこのダイニングチェアは、後にロビン・デイと長期的なコラボレーションをすることになるHille 社から「Hillstak」 として販売される椅子の前身となりました。
戦時中は、ルシエンヌ・デイもロビン・デイが教鞭を執る学校に勤めました。しかし、これは一時しのぎであって、いずれは二人とも独立し専門分野である工業デザインとテキスタイルデザインの会社を設立することを夢見たそうです。
ロビン・デイの重要なクライアントの一つ、ICIの展示ブース
戦後、空間デザインの仕事
戦後まもなく、ロビン・デイはリージェント・ストリート・ポリテクニック(現ウェストミンスター大学)の建築学部で、インテリアデザインの助教授に就任しました。この新しい職で、彼は、彼自身、最も興味を持っていた工業デザインと家具デザインの分野を教えることができました。また、建築家たち、特に1947年まで建築学部で講師を務めていたペーター・モロ(1911-1998)との交流が深まったことも大きな収穫でした。ロビン・デイとペーター・モロは非常に意気投合し、 1946 年にパートナーシップを結び、共同で展示会などの空間デザインの仕事をしました。
コンペティションに提出したキャビネットの設計図の一部。一枚の成形合板に丸みを帯びた成形を施している
家具デザインへの情熱
前述した通り、ロビン・デイは、1948年までに空間デザイナーとしての地位を確立しており、教育とは別に、この分野の活動が戦後の彼の時間のほとんどを占めていました。それは戦時中、キャリアを中断していた多くの人々と同様で、ようやくデザイナーとして活動できるようになった開放感から、イマジネーションと情熱を燃やし、驚異的なペースで働いたのです。
しかし、展覧会のデザインには天賦の才能を発揮したものの、長期的にはやはり家具をデザインしたいという思いがありました。そのため、ベッケナム美術学校の同僚だったシヴ・ラティマーが、ニューヨーク近代美術館(MOMA)が主催する「International Low-Cost Furniture Competition」に目を留めたとき、彼は応募のチャンスに飛びつき、ラティマーと共同で作品作りを始めました
写真のように、壁につけて設置する他、背中合わせで自立することも可能
International Low-Cost Furniture Competition
「International Low-Cost Furniture Competition」は、過去、チャールズ・イームズとエーロ・サーリネンが成型合板のシェルチェアのデザインで優勝している非常に有名なコンペティションでした。それに加え、戦争とそれに続く経済不況により、手頃な価格帯であることがデザインの最優先順位となったため、当時、各国に注目される大きな大会となっていました。コンペティションは、椅子と収納の2つのカテゴリーに分けられ、後者のカテゴリーでは、家庭用の多目的収納ユニットをデザインするよう指示されていました。
ロビン・デイはそれまで、RCAの卒業展示品と、マーカム・スクエアのアパートのために自作した家具以外、家具デザインの経験はありませんでしたが、このコンペティションにシヴ・ラティマーと共に挑み、フィンランドのイマン・タピオヴァーラ、デンマークのハンス・ウェグナーなど名だたるデザイナーを差し置いて収納部門での唯一の受賞を成し遂げたのでした。
異なるユニットの組み合わせ
商品化に際して不遇の扱いを受ける
彼らのデザインしたキャビネットの最大の特徴は、一枚の合板を筒状に成形した丸みを帯びた筐体にあります。このデザインは、高い比強度を実現し、木材の使用量を50%削減し、また、接合部も20カ所から2カ所に減らすなど、多くの点で経済的でした。また、経済性だけでなく、異なるサイズのユニットやシェルフを柔軟に組み合わせられる点もこのキャビネットの優れている点でした。 1949年1月、彼らはニューヨークを訪れ、ジョージ・ネルソンから賞を受け取りました。製品化においては、製造元の会社がコンセプトを無視する改良を加えるなど不遇の扱いを受けますが、この受賞は、ロビン・デイにとって大きな分岐点となりました。ロビン・デイは、この賞で注目を集め、「The Festibal of Britain」のホームズ&ガーデンズ・パビリオンのホームエンターテインメント部門など、重要な仕事を任されるようになったのです。さらに、その後30年にわたり共に仕事を続けることになるメーカー、Hille社との関係を築くきっかけとなったことも大きな収穫でした。
Hillestack
Hille社との出会い
ロビン・デイは、コンペティションの成功後、1949年、工業デザイン協議会の仲介でHille社からパートナーシップの依頼を受けます。Hille社は、イギリス国内に本社を持つ小さな家具メーカーの一つで、当時はアメリカへの高級家具の輸出に力を注いでいました。これは当時にしてみれば、非常に先進的な試みで、Hille社は保守的なイギリスの家具業界の中で一つ浮いた存在でした。ロビン・デイは、数回の打ち合わせの後、HIlle社とのパートナーシップを承諾し、Hille社のために、コンペティションで受賞した時のサイドボードから金属を廃したモデルと、ダイニングテーブル、そしてそれに見合うチェアをデザインしました。
ロビン・デイの最初の仕事を見て、その能力と誠実さを高く評価したHille社は、このパートナーシップを継続することを強く望みました。次のデザインから、ロビン・デイは低価格な家具をデザインするという私的な課題に取り組むようになり、この時期から彼のデザインの真価が発揮されるようになりました。イームズやアアルトに成形合板の可能性を見たロビン・デイは、最初の低価格スタッキングチェア「Hillestak」(1950年)の座面と背もたれをこの素材に決定しました。ロビン・デイは、合板の成型技術に不慣れなHille社の従業員たちのために、合板を曲げるための治具やフォーマーまでデザインし、問題解決にあたり、従業員から大きな尊敬を集めました。
脚部に強度上の改善(U字型からV字型に変更)を加えた後、Hillestakチェアは商業的に大成功を納め、その後20年にわたり学校、食堂、教会ホールなどで広く使用され、海外でもライセンス生産されました。HIllestakはその成功を皮切りにシリーズ化し、チェアと同じ脚部を持つHillestakテーブル(1950年)、引き出しを吊り下げたHillestak デスク(1950年)が発表されました。後述するHilleonダイニンググループ(1951年)やHilleplanストレージユニット(1952年)などもこのHIllestakの系譜にあたります。
Hille社のショールーム
ロビン・デイとHille社の信頼関係
ロビン・デイとHille社の成功の裏には非常に強い信頼関係がありました。実際、ロビン・デイは、最初の依頼で一度だけ報酬を受け取った後、純粋にロイヤリティベースで仕事をすることを選択したのです。これは、成功すれば利益を分かち合い、失敗すれば自分も責任を負うという、両者にとってフェアなやり方でした。ロビン・デイは当時のHille社との関係をこう説明しています。

「商品開発の最終判断は、ほとんど私に任されていました。私が自分のアイデアをHille夫人(Hille社の前社長)とJulius氏(Hille社の社長)に説明すると、彼らは知恵を絞って専門家として受け入れてくれただけでなく、彼らにはシンプルすぎるように思えるデザインにも多大な関心と熱意を示してくれました」

企業の視覚的な側面はすべて関連性があり、企業の哲学を表現するものであるべきだと考えていたロビン・デイは、全幅の信頼を置くHille社のために、最初の出会いから数週間で、スタイリッシュな新しいロゴを、小文字の書体で作成しました。それだけでなく、最初の10年間は、Hille社のカタログ、広告、展示会、車のカラーリングに至るまで、すべて無償でデザインしました。さらに、家具の写真撮影はすべて自費で行いました。このような彼の献身的な努力と配慮により、Hille社のイメージは短期間のうちに一新され、1950年以降、ロビン・デイとHille社の名前は人々の心に刻まれることになったのです。
コンサートホールの座席 661C 661 small molded chair,658 large molded chair
ロイヤル・フェスティバル・ホールの家具デザイン
戦後、ロンドンに建てられた最初の近代的な公共建築であるロイヤル・フェスティバル・ホールは内装がペーター・モロに一任されていました。ロビン・デイはこの旧友から依頼される形で、コンサートホールの座席、オーケストラの椅子、レストラン、ロビー、テラスの椅子をデザインすることになったのでした。
コンサートホールの座席のデザインはロビン・デイにとって非常に挑戦的なことでした。彼は、今まで使用したことのない素材を用い、この難題に取り組みました。
椅子を支える脚部には楕円形のスチールパイプ、シートフレームにはプレス加工されたスチールパネルを用い、また、未使用時(座面が上がっている状態)に音響効果を高めるため、座面の裏側にはグラスファイバー(吸音効果がある)のパッドをスチールパネルの裏に配置するなど斬新かつ論理的に素材を選びました。
他にも革張りのアームレストのサイドパネルにサペリマホガニー材(アコースティックギターのボディに用いられる木材)を用い、シートパッドにはdunlopillo社(英国マットレスブランド)のフォームラバーを選ぶなど、彼の素材へのこだわりは細部まで余念がありませんでした。
オーケストラ、レストラン、ロビー、そしてテラスの椅子は、しなやかなスチールパイプの脚と曲線的な成形合板の背もたれで、独特な統一感が演出されました。
オーケストラ用の椅子(後にHille社が661Cの名で製造)は、中でも最もミニマルなもので、演奏者がジャケットの裾を座面と背もたれの隙間から出せるようにデザインされており、座面はプラスチック製のファブリックでシンプルに仕上げられました。
レストラン用の椅子(後に661small molded chairの名で製造)とロビー用の椅子(後に658 large moulded chairの名で製造)に共通する美しい特徴は、背もたれの有機的なフォルムと、それに一体化したアームレストでした。一枚の合板から成形されたオリジナルの背もたれは、内側がウォールナット材、外側が明るい色のバーチ材という2トーンカラーで、銅メッキの脚が付いています。これらのチェアは、軽快な存在感で、制作された空間の明るく開放的な性格にも完璧にマッチしました。
テラスの椅子
ロイヤル・フェスティバル・ホールの家具のその後
オーケストラ用に制作した661Cは、少なくとも1966年まで生産され、長い間愛用されました。レストラン用の椅子、661small molded chairは10年以上製造されましたが、1952年以降、より成功した柔軟なデザインの675 chairに取って代わられました。そして、ロビー用の椅子、658 large moulded chairは、1950年代半ばに、より実用的な700 arm chairに取って代わられました。やはり、これらの数の家具を納期に間に合わせるとなると、多少の改善点を抱えたまま発表せざるおえなかったようです。しかし、これらの家具が、多少の変化を加えながらもロングセラーとなったことを考えると、ロビン・デイのデザインの先進性は非常に高次元なレベルにあったと言えます。
高価格帯の部屋 低価格帯の部屋
The Festibal of Britain
1951年、ロンドンおよびイギリス各地の会場で開催された「The Festibal of Britain」はロビン・デイのキャリアにおいて、ひとつの重要な出来事となりました。英国全土で何百万人もの来場者が訪れたこの大規模な見本市で、ロビン・デイはホームエンターテインメント部門のデザインを依頼されました。ホームエンターテイメント部門の目標は、ラジオやテレビ、蓄音機といった新しいテクノロジーに対応できる収納設備を備えた多目的リビングルームを展示することでした。ロビン・デイはこれらの議題に高価格帯の部屋と低価格帯の部屋を対照的に並べるというユニークな方法で答えました。そして、この見本市のためにロビン・デイがデザインした家具の中でも特質すべきものは、収納ユニットでしょう。MOMAのコンペティションでは曲線やテーパーのある形状を好んだロビン・デイでしたが、この見本市では、低コストでより柔軟なものを作るべく、シンプルな直方体のボックスを収納ユニットとしてデザインしました。これは、壁付した骨組みに、直方体のボックスを真鍮のボルトで固定するという革新的なシェルフでした。この収納ユニットは、後にHille社から大量生産される「Hilleplan」という収納ユニットの原型となりました。
また、「The Festibal of Britain」 は妻のルシエンヌ・デイにとっても大きく名を売る機会となりました。ルシエンヌ・デイは彼女自身で各パビリオンの代表者に連絡をとり、テキスタイルを飾ってもらうように直談判したのです。その行動力は実を結び、彼女のテキスタイルはマスコミに取り上げられました。その結果ルシエンヌ・デイは夫に負けずとも劣らない名デザイナーとして世間に認められるようになったのです。
Calyx:左奥に見えるテキスタイル
ミラノ・トリエンナーレ
1951年のミラノ・トリエンナーレで、主催者から招待を受けたロビン・デイは、「The Festibal of Britain」で制作したリビングルームをアレンジし、展示しました。ロビン・デイは658 Large moulded chair や、ジョン・リード(1925-1992)と共同で制作したフロアランプなど、自らで家具を選び飾りましたが、その中でも特に輝きを放っていたのは、妻、ルシエンヌ・デイのテキスタイル「Calyx」でした。結果的に、ロビン・デイとルシエンヌ・デイはデザイナーなら誰しもが憧れるミラノ・トリエンナーレという大舞台で共に金賞を受賞することができました
1951年は、ロイヤル・フェスティバル・ホールの開館、フェスティバル・オブ・ブリテンの開催、ミラノ・トリエンナーレの開催など、数ヶ月の間に熱狂的な出来事がいくつもあった年でした。その結果、ルシエンヌ・デイはテキスタイルデザイナーとしての本領を発揮し、ロビン・デイは英国で最も有望な家具デザイナーとしての名声を確立しました。ロビン・デイは、その後の10年間、Hille社との関係を強化し、デザインのレパートリーを増やしていきます。
Hilleplan (1952)
「Hilleplan」
「The Festibal of Britain」の後、ロビン・デイの関心は、Hille社の地位を固めることにありました。つまり、1950年の「Hillestak」に続くヒット商品の開発に熱中したのでした。
そして、MOMAのコンペティションや「The Festibal of Britain」で培った経験を製品化したものである、収納システム「Hilleplan」シリーズ(1952年)は、ロビン・デイの思惑通り、Hillestakに続く最初のヒット商品となりました。「unit A〜unit J」と名付けられた9種類のキャビネットで構成されるこの収納システムは、異なるエレメントを組み合わせたり、並べたりできるように設計されました。特質すべき点は、キャビネットの引き戸をシックな黒またはグレーの二色から選択できたということです。
Interplan (1954) ベースとなるベンチ
「Interplan」
Hilleplanの後継は「Interplan」(1954年)と呼ばれる収納ユニットで、「unit K〜unit Z」と呼ばれる14種類のキャビネットから構成されました。Hilleplanと同様の規格で設計されており、基本寸法はすべて同じでした。主な違いは、ローズウッドやアッシュの単板が使われていることと、引き出しに、直角に突き出たメタルハンドルが採用されていることでした。また、従来の脚の代わりに、キャビネットのベースとして使用できる多機能なベンチも同時に発表され、その柔軟性が強調されました。Interplanは、その後、1954年のミラノ・トリエンナーレで壁掛け式のスチール製フレームと共に発表されました。これは、1951年の「The festival of Britein」で発表した収納ユニットのアイデアを再利用したものでした。
time-life 社のために設計したデスク
「金属フレーム」
ロビン・デイは、1952年、デスクのデザインにも取り組みました。このデスクは、彼がこの年、time-life社の役員室の設計を依頼されたことがきっかけで生まれました。豪華なリオローズウッドで作られたこのデスクは、後にHillplanの仲間入りを果たし、1980年まで生産され、根強い人気を誇りました。
このデスクと、前述したHilleplanやInterplanのキャビネットには、共通して、ロビンデイのあるこだわりが隠されています。それは、家具に金属フレームを使用するということです。この金属フレームは、「Festival of Britain」で収納ユニットをデザインした際に、展示会用のスタンドによく使用される角パイプ状のスチールを採用したことに始まります。
金属フレームは非常に丈夫であると同時に、ロビン・デイの家具に軽快さを与えました。例えば、上記のデスクの場合、金属フレームは天板とデスクワゴンを分離し、地面からはっきりと浮かせることを可能にしたのです。
そして、Hille社は、ロビン・デイの傾向に合わせ、1957年、ヘイヴァーヒルに自社の金属加工工場を設立しました。Hille社の協力もあって、ロビン・デイのデザインには、その後20年に渡り、金属フレームが頻繁に登場することになります。
上:リクライニングチェア(1952)
下:Qシリーズ
「Q Stak」
1950年代のロビン・デイは、リラックスできるように傾斜のかかったリクライニングチェア(1952年)や、テレビを見るために直立の背もたれに弾力性を持たせたテレチェア(1953年)など、特定の目的のために使う椅子をデザインすることに熱心に取り組みました。
「Q Stak」と呼ばれる一体成型合板の座面を持つ椅子のシリーズ(1953年)は、まさにそのような椅子の一つで、腰を正しくサポートし疲労を軽減するという目的で設計され、心地よいカーブがデザインの中に落としこまれました。
他にも、Q Stakは、コスト削減のために素材と構造をシンプルにするという、もうひとつの重要な検討事項によっても形作られ、座面、2本のスチールパイプの脚部、2組のナットとボルトの7点のみで構成されました。ヒット商品となったQ Stakは、その後、直線的なスチールロッド脚のノンスタッキングタイプ「Q Rod」、V字型の木製脚の「Q stak」、回転するスチールパイプの台座に取り付けられたオフィス用「Q Swivel」など、いくつかのバージョンが展開されました。
Form Group(1960)
「Form Group」
1959年、『ideal Home』誌は「今までに無い新しい家具」というテーマで、家具のデザインを募集をしました。ロビン・デイは「Form Group」をデザインし、1960年2月、本誌に掲載され話題を呼びました。Form Groupは、ベンチ、テーブル、チェアを28インチ(71cm)のモジュール上にデザインしたシーティングシステムで、できるだけフレキシブルに、かつ簡単に組み立てられるよう、基本のフレームワークは角パイプ状のスチールで、そこにウェビングと呼ばれる帯状のゴムを張ってクッションを支えるように設計されました。当時、Form Group は市場で最も先進的で柔軟なシステムであり、1961年にはデザインセンター賞を受賞しました。
左:Chevron chair (1959) 
右:Gatwick chair (1958)
市場のニーズとの向き合い方
Hille社の家具は1950年代前半に急速に成長しましたが、ロビン・デイのアプローチは常に実験的であったため、脱着可能なアームチェア「676」など、特に初期には必然的に衰退していく作品もありました。しかし、ロビン・デイはそれでも市場のニーズに迎合するのではなく、あくまで自身のアイデアと信条を貫くことで次第に短命なデザインの数を減らしていきました。 そして、1950年代末には、前述した収納家具、デスク、チェア、モジュール式シーティングに加え、ダイニングテーブル、サイドチェア、ベンチ、イージーチェアなど、さまざまな家具を展開し、次々に成功を納めました。 ロビン・デイは1964年のインタビューで、当時のことを以下のように振り返ります。 「新しいデザインがオーソドックスな市場調査から生まれたことがないというのは興味深いことです。営業担当者が商業的に必要だと考えた結果ではなく、私たちが気に入り、作るべきだと考えたからこそ、新しいデザインが生まれたのです。このような、非商業的な態度が、商業的に成功したことは、私にとって非常に喜ばしいことです。」
Stamford chair(1952) 675 chair (1952)
ロビン・デイの美学
1962年、ロビン・デイは「良いデザインとは、その目的を十分に果たし、健全な構造であること、そしてその目的と構造をデザインで表現することである」と述べています。彼のこの美学は、「骨組みを隠さない誠実で経済的な家具をデザインしたい」という思いから生まれたものでした。そのため、他の多くのデザイナーのように、金属製の脚を椅子の座面や肘かけの下に隠すのではなく、視覚的に剥き出しな外側部分に取り付けることが多かったのです。また、「Chevron chair」(1959)や「Gatwick chair」(1958)のように、シーティングにゴム製のウェビングを使用する際、それが張られたレールを隠そうともしなかったのもそのためです。
しかし、実用的な構造で作ろうとすると、見た目に不格好なものができてしまうことがあります。その一例が「Stamford chair」 (1952)で、ロビン・デイは合板の背もたれに木材の肘掛けが固定されていることを「ごまかす」ために布張りをせざるを得ませんでした。Stamford chairで合板と木材を組み合わせた理由は、661と658のチェアで合板を二方向に成型することの難しさとコストの高さを知ったためでした。
このような視点から見ると、ロビン・デイが自身のデザインの中で「675 chair」(1952)を最も気に入っていたことは容易に頷けます。このデザインで彼は、一方向の曲げ加工のみで、肘掛け付きの成型合板の背もたれを形成することを実現したのです。つまり、ロビン・デイはこのデザイン で彼の美学である「健全な構造と経済性」を「美しさ」を損なうことなく形にしたのです。
675 chairはすぐさま爆発的な人気を誇り、その人気は現在にも及んでいます。実際、2014年からイギリスの大手メーカー、case furnitureより、現在も復刻生産されており、2015年には国際的に評価の高い英国のデザイン賞の一つ、デザインギルドマーク賞を受賞しています。
Albemarle dining group (1954) Cane Back sette (1958) President chair (1957)
デンマークとアメリカの影響
デザイナーは、孤立無援で仕事をしているわけではありません。時代の流れにある程度影響されるのは避けられないのです。ロビン・デイもまた例外ではなく、1950年代の家具デザイン大国であるデンマークとアメリカから大きな影響を受けていることを認めています。
実際、彼は、緩やかな彫刻的曲線、弓形、先細りのフォルムといったデンマーク・スタイルを反映した作品をいくつか発表しています。例えば、「Albemarle dining group」(1954年)、「Cane Back arm chair」(1957年)、「President chair」(1957年)、Albany(1958年)、Marson(1961年)などがデンマークの影響を受けた作品に数えられます。
ロビン・デイの作品に影響を与えたアメリカの企業は、2社に絞られます。knoll社とHerman Miller社であり、いずれも非の打ちどころのない家具メーカーです。彼は、Florence knoll (1917-2019)の合理的なアプローチに共感しており、角パイプを用いた彼の作品群は、この女性デザイナーに少なからず影響を受けたことが伺えます。また、HilleplanとInterplanシリーズの開発には、George Nelson(1908-1986)の「Platform Bench」(1947)や「Basic cabinet series」(1946)が大きく影響を与えたようです。
RDIの称号を手にする
1959年、ロビン・デイは 英国におけるデザイナーの最高峰の称号であるRDI(Royal Designer for Industry)に任命されました。そして、その3年後にはルシエンヌ・デイも同じ称号を手にし、この栄誉を分かち合う唯一の夫婦となりました。 1960年、Gillian Naylorは彼らの功績を以下のように総括しました。

「ロビン・デイとルシエンヌ・デイ、それぞれが別の分野で仕事をしているが、デザインの最大公約数を打ち出すことができているようだ。彼らは決して妥協を許さず、どんなデザイン上の問題に対しても、常に最善の解決策を見出そうと試みている。」

1950年代に絶頂期を迎えたロビン・デイのその成功の裏には、常に、妻、ルシエンヌ・デイの姿があり、彼らは互いに良い影響を与え合ったようです。それでは、彼らの次のステージを見ていきましょう。
上:ロビンとルシエンヌ(1963)
下(左から):
Director desk(1962)
Interplan デスク(1962)
オフィス家具アクセサリー(1959)
オフィス家具
1960年代、Hille社はオフィス家具の販売に最も力を注ぎました。そして、ロビン・デイはそれに応えるべく、2つの新モデルをデザインしました。「Director desk」(1962)は、その一つで、管理職などの高所得者をターゲットにした高級路線の家具でした。革張りのリオローズウッド単板を使った天板、重厚なステンレスフレーム、4枚扉のキャビネットで構成されており、シンプルで削ぎ落とされたデザインとフラットな引き出しが特徴です。
もう一方のモデルが、「Interplan」のオフィス家具シリーズ(1962年)で、こちらは前者とは対照的に大衆向けの低価格なデスクとして宣伝されました。控えめなサイズのノックダウン式のデスクで、防水性の高いビニールを天板に使用していることが特徴です。
1959年、Hille社はAcon products社と提携し、同社に代わってオフィスアクセサリーを製造することになりました。ロビン・デイは家具だけでなく、こういったプロダクトのデザインにも憧憬が深かったため、アクセサリーのデザインも彼が担当し、上記したHille 社のオフィス家具群に非常ににマッチする形で仕上げました。1959年、Hille社はAcon products社と提携し、同社に代わってオフィスアクセサリーを製造することになりました。
P280、P281、P282(1969)
レストラン家具
1960年代半ば以降、Hille社はオフィス家具に加えて、レストラン業をターゲットとしました。カフェの客席のための「Polypropylene chair」(1963年)や、このチェアに合うようにデザインされた、プラスチック天板のテーブル、P280、P281、P282(1969)などはロビン・デイによるもので、Hille社はこの市場でも優位性を獲得しました。
Studio Group(1964)
シンプル
60年代のロビン・デイは、テーパーのかかったクラフトマンシップを感じさせる美しさからは離れ、直線的でシンプルなデザインを好む傾向がありました。そしてその傾向が頂点に達したのが、「Studio Group」(1964)でした。
Studio Groupは、トロリーやコーヒーテーブル、キャビネット、ダイニング家具、などリビングで用いられる家具を幅広くコーディネートしたコレクションでした。アフリカンチークとも呼ばれるアフロモシア材を用いたこれらのコレクションは、若い人をターゲットとし、素朴で飾らない美しさが表現されました。
右側:Scimitar chair (1962) 右側:Plus Group (1965) 右側:Concourse Chair (1965)
リデザイン
「Scimitar chair」(1962)は、Stamford chair (1952)を派生したモデルで、先代と同様に広く普及することになりました。Scimitarは西洋風の湾曲した刀を意味し、包み込むように広がっている成型合板の背もたれから名付けられました。
「Plus Group」(1965)は、1960年にデザインしたモジュール式のシーティング・システムであるForm Groupをリデザインしたもので、先代と異なる点は、基本フレームに角パイプではなくアフリカンウォールナットやパイン材を使用したことでした。より強度を増し、質実剛健なデザインに終着したのです。
ガトウィック空港の第2世代の座席として開発された「Concourse chair」(1965)は、オリジナルのGatwick chair(1958)と構造は似ていますが、角パイプではなく円形断面のパイプを使用している点が特徴です。Gatwick chairが直線的なデザインなのに対し、Concourse chair は、同じく重厚で建築的でありながら、より自由な配置が可能で、テーブルを囲んでカジュアルにグループ化することができました。
以上のように、ロビン・デイは自身のデザインを一過性のものにすることはなく、さらにそこにリデザインを施し、洗練させることを得意としました。
41 chair (1962) Axis chair (1966)
チャレンジ
ロビン・デイはデザイナーとして、洗練の域に達してもなお、チャレンジをやめない人でした。その一例として挙げられるのが、「41chair」(1962)です。この椅子は、彫刻的なローズウッド製の背もたれと、シンプルなスチール性のパイプを組み合わせた点で非常に珍しいものでした。
41chair を「新しい組み合わせへの挑戦」と表現するならば、「Axis chair」(1966)は「新しい素材への挑戦」と表現できるでしょう。ロビン・デイは初めて使用するアルミ鋳造で作られたサイドフレームを、ローズウッドまたはチーク材の成形合板の座面と組み合わせ、非常に美しい形で完成させました。
このAxis chair は、実は1940年代後半、Peter Hvidt(1916-86)と Orla Mølgaard-Nielsen(1907-93)という2人のデンマーク人デザイナーが、Fritz Hansen社(デンマークの家具デザイン会社)のために制作した脱着式の木製チェア、「Ax」に由来します。
ロビン・デイはこの先人のアイデアに加え、自身の取り外し可能なモジュール式チェアの経験を活かし、フレームを共有することで1台でも、複数台でも使用できるチェアを開発しました。最小限の部品で構成されながら、その用途は多岐にわたり、アームチェアやクッションに加え、オプションでテーブルまで取り付けることもできました。
Mark2(1963)
ポリプロピレン
1954年、後にノーベル賞を受賞するイタリアの科学者、Giulio Nattaによって、新しいタイプの熱可塑性プラスチックであるポリプロピレンが発明されました。
ロビン・デイは、1960年、この新素材の製造権を取得したイギリスのShell社が主催するコンペティションの審査員に招かれたことをきっかけに、この素材の驚くべき特性を知ることとなります。ポリプロピレンは、軽くて丈夫、傷つきにくい、熱に強い、耐久性に優れているなど、当時、家具業界で使われていた他の素材にはない多くの長所を備えていたのです。そして、この新素材との出会いが、ロビン・デイとHille社をさらなる飛躍へと導くこととなります。
Tub(1967) メキシコオリンピック
「Mark1」「Mark2」
Hille社の社長、Julius氏は、ポリプロピレンの家具産業への応用の可能性を探ることに熱心で、これまで誰も製造に関する技術的な問題を克服することができていなかった中、ロビン・デイに実験を促し、財政的な支援を行いました。ロビン・デイはこの熱意に応えるべく、さまざまな実験を行い、ついにこの新素材を使った椅子の開発に成功しました。
座面の裏側にボスを一体成型し、エッジを完全にロールオーバーさせることで、強度と安定性を高めるなど、他にもさまざまな工夫を施し、1963年5月、ついにポリプロンチェア、「Mark1」は完成したのです。その後、質感やフォルムなど細部に細やかな変更を加えた「Mark2」(1964.3)が販売され、1965年にはデザインセンター賞を受賞しました。
Hille社はこれを機に、英国で最も先進的な家具メーカーとして、その地位を確立し、事業規模を大幅に拡大しました。Hille社に大成功をもたらしたこのポリプロピレン製の椅子は、実際さまざまな公共施設で使用されることとなりました。例えば、1967年には、首都ロンドンに位置するヒースロー空港で、「Tub」と呼ばれるアームチェアのバージョンが設置されました。また、1968年のメキシコオリンピックでは、新設された競技場に3万8000脚のポリプロピレン製のチェアが設置されました。他にも、教会、学校、会議場など使用される施設は多岐に及びました。
Centric chair (1968) Nimbus chair (1965)
ポリウレタン
Hille社の社長、Julius氏は、ポリプロピレン製のチェアで成功を納めた後、ロビン・デイに、ポリスチレン、ポリウレタン、ABSなど、他の形態のプラスチックを試すように勧めました。ロビン・デイはポリスチレンを使用して「Nimbus chair」(1965年)を開発しましたが、輸送コストが高く、金型も高価なため、代替素材を探すことになりました。ポリウレタンは、製造コストが安いだけでなく、強度や重量という側面でも優れていたため、代替素材に抜擢されることとなり、Julius氏はHIAプラスティックス(HIAP)という会社を設立して、「Centric chair」(1968)や、「Kulminus armchair」など、安価で布張りのポリウレタンシェルのチェア一式の製造を行いました。またABS製の4-4000 Pedestal chair(1970)の前身もこの新設の会社で作られました。
「Series E」
「Series E」
1960年代、家具デザインにポリプロピレンを採用したパイオニアであるロビンは、その後の10年間、この弾力性のある素材のさらなる応用を模索しました。
1971年、ポリプロピレンチェアは、「Series E」という新たなチェアに生まれ変わりました。子供の目線でデザインされ、BSI規格に準拠したEシリーズチェアは、当初A〜Eの5つのサイズで生産されました。一番小さいA、Bは幼児用、中くらいのC、Dはジュニア用、一番大きいEは中等学校用です。実はDとEはシェル自体は同じ大きさで、脚の高さが違うだけなのですが、これは金型製作のコストを大幅に削減するための工夫でした。Eシリーズは、ポリプロピレンチェアよりも四角い形をしていること、上部の角が曲がっていること、背もたれに丸い長方形の穴が開いていること特徴でした。これらの特徴は、持ち運びを容易にすると同時にプラスチックの量を減らして軽量化したためでした。前モデル同様、Eシリーズは人間工学的に正しく、耐久性に優れ、驚くほど安価でした。その結果、学校現場で絶大な人気を博し、 Hille社が苦境に立たされていた時代にも、Eシリーズの販売で会社を存続させることができたのです。1980年代には、コベントリー・フットボール・クラブなどのサッカースタジアムでチップアップタイプが採用され、その後1990年代初頭には、スウェーデンの世界的小売店イケアでサイズAチェアが販売されました。
「Polo chair」
「Polo chair」
1975年、ポリプロピレン製チェアに 「Polo chair」が加わり、これもHille社にとって大きな成功となりました。Polo chairは、屋内でも屋外でも使えるチェアを作ろうという発想から生まれました。ポリプロピレン製の椅子は、紫外線に弱く、時間が経つと色あせたり、雨が降ると水がかかったりと、屋外に置くには不向きなものでした。
これらの問題を解決するため、Polo chairのシェルは、紫外線防止剤を含んだ特殊なポリプロピレンで作られ、シェルにはいくつもの穴が開けられ、排水と換気が容易にできるようになっています。
ポリプロピレンチェアの個性
ポリプロピレンチェアは、それぞれの製品に個性があります。ポリプロピレン製のサイドチェアとアームチェアは、真面目な大人の雰囲気を持っており、Polo chairは、シェルの若々しさが、爽やかな明るい色(当初は白、黒、黄、赤、エメラルド)に反映されていました。また、ポリプロピレンチェアとは異なり、Polo chairのシェルはマットな質感ではなく、光沢のある仕上がりとなっています。この光沢は、チェアの個性をより新鮮なものにすると同時に、お手入れをしやすくするという実用的な役割も果たしています。ポリプロピレンチェアと同様、Polo chairもさまざまなベースが用意され、ホワイトエナメル加工のスチール製ロッドベースに設置されると、最も陽気な雰囲気になります。
ロビン・デイのデザインは極端に控えめなものが多く、アノニマスであることを望むことが多かったのですが、彼の性格には、色やパターン、彫刻的なラインによって表現される、陽気な側面もありました。ポロのシェルを貫く、段階的に並んだ穴は、そんな彼の個性を体現しており、彼の最も愛らしいデザインの一つになっています。
「Obo chair」(1972年)
「Obo chair」
1973年、Hille社はロンドンのデザインセンターで「Furniture Takes to Technology」という展覧会を開催し、いくつかの新しいデザインを展示しました。
その中のひとつ、「Obo chair」(1972年)は、ポリプロピレンを素材とし、新しい技術であるブロー成形で作られたものです。ブロー成形とは、原料の顆粒を回転するスクリューの入った長い樽に投入し、熱を加えて生地を作る方法です。この柔らかい素材を金型に入れ、圧縮空気で押し出して成形します。ブロー成形は、バケツやボトルなどの安価な容器を作るために広く使われており、金型費用も射出成形に比べてはるかに安いことがメリットとして挙げられます。しかし、押し出し跡や金型の線がはっきり見えるため、仕上がりの水準がやや劣るという欠点があります。Obo chairの最も独創的な点は、金型から取り出した1本の長い円柱を斜めに半分に切って、2脚の椅子を作ることでした。ブロー成形の長所を生かしつつ、欠点を最小限に抑えるように設計されているのです。たとえば、押し出し成形の際にできるドローラインを目立たなくするために。ロビン・デイは、最終的な金型にマットな表面を使用しました。内部にはパッドと布張りが施され、白いプラスチックの外装はむき出しのままデザインされました。
「4-4000 armchair」(1970年)
「4-4000 armchair」
1970年代にロビン・デイは、ABSを使用したチェアの実験をしました。ABSとは、アクリロニトリル・ブタジエン・スチレンのことで、それぞれ性質と強度が異なる3つのポリマーを組み合わせて作られています。ポリプロピレンよりも成形が難しいですが、剛性が高いため、リクライニングチェア「4-4000 armchair」(1970年)のシェルに採用されました。通常、ラウンジチェアは高価なものですが、4-4000は大量生産技術によって価格を下げることに成功したのです。ゆったりとした座面には、大きなテーラードクッションが敷かれ、白やバッファローブラウンのシェルと引き立てあったり、コントラストを効かせたりしています。エナメルスチールの回転式台座は、このチェアにモダンな雰囲気を与え、特に若者を惹きつけるものとなりました。そのため、このラウンジチェアは1972年の若者向けカタログに掲載され、Hille社は国内市場に再進出することになったのです。
「Tote table」(1972)
「Tote table」
Obo chairと同年に発表された「Tote table」(1972)は、丸みを帯びた四角や円形のフォルムはObo chairと似ていますが、ABS製で滑らかな光沢があるのが特徴でした。円筒形の台座は中空で、上部に蓋があり、色は白、オレンジ、ブラウンの3色から選べます。主にスタッキングを目的としたもので、広告では、蓋がトレイにもなるように描かれています。
プラスチックへの愛着が薄れる
1980年代末になると、家具業界ではプラスチックへの愛着が薄れ、スタイルも急速に変化していった。1980年代に入り、ロビン・デイはこう振り返ります。

「デザインの方向性がバラバラになっているようだ。近代的な発展が続いて、どんどん良くなっていくことを期待していたのですが、最近のデザインは、ロマンチックというか、非常に厳しいというか、いろいろな方向に進んでいますね」
「Hadrian seating」(1981年)
Barbican Arts centreでデザインコンサルタントに任命される
1969年7月、ロビンはBarbican Arts centre(バービカン・アート・センター)のシーティング・デザイン・コンサルタントに任命されました。このセンターは、ロンドン交響楽団のコンサートホール、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの劇場、映画館、図書館、会議場など、広大で多面的な施設で1980年台にオープンするまでの間、ロビン・デイはこの仕事に多くの時間を費やしました。
「Hadrian seating」
この建物の特徴は、内外装に大胆に使用されたコンクリート です。そのため、家具は色も形も頑丈でなければ印象に残りません。「高い天井と開放的な空間をもつ巨大なスケールの施設には、建築的な特徴をもつ、スケールの大きな家具が必要でした」とロビン・デイは説明します。「Hadrian seating」(1981年)は、シンプルで幾何学的なフォルムの大型でがっしりとしたモジュール式シーティングで、彼らしい大胆な回答でした。そのしなやかなモニュメント性は、ハドリアヌスの長城との関連性を強調するものです。
Hadrian seating は直線、四分円、くさび形の3種類の木製フレームで構成され、タンやブロンズの革張りで、ラミネート製の台座に取り付けられる柔軟で曲線的なシステムでした。
コンサートホールの椅子
コンサートホールの椅子
バービカンでロビンが手がけた2つ目の大きな仕事は、3つの映画館、1166席の劇場、2026席のコンサートホールを含む5つのホール用の座席です。劇場とコンサートホールは、視覚的、音響的な要求から座席のレイアウトが特に複雑で、ロビン・デイの計画は1970年代の建物自体の設計変更に伴い、何度も修正されました。デイズ夫妻のカラーコーディネートのノウハウは、このコンサートホールの客席によく現れています。5色のリッチでまろやかな色を列ごとに交互に配し、より明るい雰囲気に仕上げているのです。
「City seating」
「City seating」
2つの小さな映画館と講義室には、「City seating」(1978年)が設置されました。これは、角ばった輪郭を持つチップアップ式の客席で、バービカンの契約から分離してHille社が製造した標準的なシリーズです。バービカンのシネマシーティングの特徴は、鮮やかな多色の布張りで、個々のシートは赤、青、緑の布で交互に覆われ、全体的に生き生きとした刺激的な効果を生み出しています。
Hille社のロゴ
HIlle社が株式を売却する
ロビン・デイのポリプロピレン製品は商業的に大成功を収めました。そして1972年、Hille社は急速に拡大する海外市場に対応するため、「Hille international」と社名を変更しました。しかし、1970年代の石油危機と世界的な不況の影響を受けて、Hille社の経営状況は悪化の一途を辿ることとなります。
1980年代初頭になると、Hille社はついに深刻な財政難に陥りました。製品レンジの過剰な多様化、Knoll社のライ2つの小さな映画館と講義室には、「City seating」(1978年)が設置されました。これは、角ばった輪郭を持つチップアップ式の客席で、バービカンの契約から分離してHille社が製造した標準的なシリーズです。バービカンのシネマシーティングの特徴は、鮮やかな多色の布張りで、個々のシートは赤、青、緑の布で交互に覆われ、全体的に生き生きとした刺激的な効果を生み出しています。センスの喪失、そして競争の激化が複合的に作用したためです。1982年になっても期待されたような改善は見られず、この年の終わりには壁に突き当たることになりました。この頃、社長のレスリー・ユリウスが重い病気にかかっていたことも、Hille社の問題に拍車をかけていました。1983年10月、事態は急展開し、Hille社は保有する株式を同業他社のエルゴノム社に売却しました。
この突然のオーナーチェンジは、会社の方向性と精神を根本から変え、以後、学校、オフィス、講堂のコントラクトシーティングに特化していくことになります。そして1980年代半ば以降、ロビン・デイがHille社のためにデザインすることは少なくなりました。
「Spectrum」(1983年)
「Spectrum」
Hille社が買収された当時、「Spectrum」(1983年)というチップアップ式ポリプロピレン製スタジアムシートの開発作業がすでに進んでいました。ライザー固定式、トレッド固定式、ビームマウント式、格納式があり、また連結式の折りたたみ椅子もありました。錆びないスチールフレーム、ナイロン製のピボットとプラスチック製のストッパーを採用し、金属同士の接触を排除し、ネジやボルトを使わず、最小限の溶接で作られたシンプルな構造が特徴です。1980年代半ばに大成功を収め、ニューヨークのフラッシング・メドウ・スタジアム、カーディフ・アスレチック・スタジアム、オーバル・クリケット・クラブ、ウェンブリー・アリーナなど、数多くのサッカースタジアムやスポーツアリーナで設置されました。また、布張りも可能であったため、劇場や講演会場などの屋内会場にも適していました。
「RD seating」(1984)
「RD seating」
1981年、ロビン・デイはこう語っています。「私は、エネルギー、時間、材料を大量に消費する、非常に格調高い人工物を作る正当な理由が少なくなってきていると感じるようになりました」。そのため、ロビン・デイは1980年代から1990年代にかけて、主に頑丈な公共座席に焦点を当て、デザインに特に価値のある分野だと信じました。例えば、1984年に発表した「RD seating」(1984)は、国立医療サービスのインテリアデザイナー連合から、病院の待合室に適したビームマウント型のシーティングシステムを求められたことがきっかけで生まれました。高齢者や病人に適した高さに設定され、スリムな形状が特徴的なシートは、プレス加工されたスチール製で、パッドや布地は最小限に抑えられています。深いパッドではなく、形状によって快適な座り心地と腰のサポートを実現することを目指したデザインです。また、張地が簡単に交換できること、汚れがたまりにくいように座と背の間に隙間があること、清掃しやすいように支柱の間隔が広く取られていることなど実用面でも重要な特徴が多く盛り込まれています。現在も生産されているRDシリーズは、ロビン・デイが厳しい要求に応えられることを示すものである。
「Toro seating」(1990年)
「Toro seating」
ロンドンの地下鉄の駅で広く使われている「Toro seating」(1990年)は、ロビン・デイのデザインの中で最も一般的なものですが、もともとは病院の救護室など、より幅広い用途のためにデザインされたものです。鮮やかな色彩のエナメルや磨き上げられたスチールで仕上げられ、円筒形の上下のレールを包み込むように上向きにカーブしたピアスシートが特徴的です。丈夫で耐久性に優れ、見た目にも美しいこのチェアは、翌年には「woodoro」(1991年)という硬質材を使用したバージョンも発表され、現在も布張りの「exodus」(1999年)と共に生産されています。
「Solo」
「Solo」
1986年、ハイウィカムにあるオフィス用高級家具メーカー、Mines and West社との取引がきっかけとなり、1987年から1990年にかけて3つの新しいシーティングの生産を開始しました。Mines and West社は木製の家具を専門としており、ロビン・デイのここでのデザインはすべてアッシュ材でできていました。金属やプラスチック製の大量生産品とは対照的で、自然や天然素材を愛するロビンの性格が表れています。1981年、彼はこう語っています。

「私はますます、木のようなもの、そしてそれらが組み合わされたものが好きになってきました。木、石、革、杖など、時を経るごとに味わいを増し、気高さを増していくものには、温かみがある。それは、その外観や無限のテクスチャーのバリエーションに対する愛情だけでなく、そうした手仕事の素材に触れ、扱うことの触覚的な楽しみでもあるのです。」
王立芸術協会のマスターに任命される
1987年、ロビン・デイは 王立芸術協会 、ルシエンヌ・デイは王立産業デザイナー学部のマスターに任命されました。この就任を機に、王立芸術協会との交流が深まり、彼女とロビン・デイは王立芸術協会のデザイン委員会に招かれることになりました。この委員会は、1980年代後半に設立され、RSA本部の再開発に関連するデザインに助言を行うものでした。1990年に完成したこのプロジェクトでは、地下に新しいレストランと講義室が設置され、2人のクリエイティブな意見が反映されることになりました。1つ目は、インテリアデザインのアドバイスです。デイズ夫妻の提案で、印象的なレンガの丸天井を装飾せずに残し、シャイン・ウォークのむき出しのレンガ造りを思い起こさせるような興味深いものになりました。次に、ロビンは、ダラムストリート・オーディトリアムの特注の布張りチップアップシートや、レストランで使用されているスチールフレームの「Mult stacking armchair」(1989)など、いくつかのシーティングをデザインしています。
「Mult stacking armchair」(1989)
「現代」デザインの先駆者
1990年代になると、デイズ夫妻はデザイナーとして、伝説的な存在になりつつありました。1991年、夫妻の戦後デザインへの重要な貢献が『The New Look - Design in the Fifies』という本にまとめられ、「現代」デザインの先駆者としての重要な役割が明らかにされたのです。この本は、デイズ夫妻が招待されたマンチェスター・アート・ギャラリーでの大規模な展覧会に伴うもので、夫妻の作品はより多くの人々に広まり、戦後デザインの中で彼らの重要な位置づけが確立されました。
子供用家具
子供用家具
ロビン・デイのデザインへの熱はをキャリアの終盤になっても、冷めることはありませんでした。創作意欲は相変わらず旺盛で、新しいデザインを生み出す機会を心待ちにしたのです。実際にSheridan Coakley、Twentytwentyone、Charles Keenなどの新しいクライアントも獲得しました。
1999年にTwentytwentyoneが主催したChildsplyというプロジェクトでは、13人の主要デザイナーの一人として子供用家具をデザインしました。ロビンの作品は、平らなサイドフレームに座面がすっぽりと収まる椅子で、しかも、1枚の板材から2脚も作れるほど、経済的な設計になっています。
ロビン・デイは自分の子ども時代を思い出して、「子どもは大人の道具に興味を持つものだ。」と言いました。ロビンのデザインには、その昔、豊かでなかった時代の創意工夫が息づいているのです。
「Avian lounge chair」(2000)
「Avian lounge chair」
2000年10月の100%Design展では、ロビン・デイが制作した新しいシーティングシステム、「Avian lounge chair」が発表されました。このデザインの斬新な特徴は、アームに成型合板を使用していることで、彼がThe Festibal of Britainの時にこの素材を先駆的に使用したことを思い起こさせます。
戦後の英国デザイン史の縮図
デイズ夫妻は、長くクリエイティブな仕事を続ける中で、自分たちの原点である理想に忠実であり続けました。若い頃、彼らはモダーン・ムーブメントの到来を遠くから見ていました。戦後は、実用性と人間性を兼ね備えた、親しみやすく楽観的なモダンデザインの一派である「コンテンポラリー」デザインの開拓と普及に共同で取り組みました。この50年間、夫妻は幅広い分野で才能を発揮し、このイディオムを発展させ、洗練させることに専念してきました。戦後の英国デザイン史の縮図ともいうべき存在です。彼らの影響は広範囲に及び、その影響は今後も長く続くと思われます。
 

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出典:
・「ROBIN & LUCIENNE DAY "PIONEERS OF MODERN DESIGN"」LESLEY JACKSON

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