Pierre Chapo

ピエール・シャポー


概要

Pierre Chapo
 
Pierre chapo
ピエール・シャポー(1927年7月23日 - 1987年1月)は、パリ郊外のクラマルに生まれたフランスの家具デザイナー、職人である。少年期は絵画に興味を持っていたが、1947年に造船大工と出会い木工に目覚め、パリの国立高等美術学校で建築を学んだ。北欧、中米を旅行し、アメリカで1年間働いた後、パリに戻り、木への興味を追求し、主にオーク、ニレ、タモ、チークの無垢材で家具を作った。

世界を旅する

夫妻はT型フォードに乗って旅をした
1951年、ピエールは21歳の時に、リュックサックとテントを持ってスカンジナビアを旅しました。建築スタジオで働いて生活費を稼ぎながら、スウェーデンからフィンランドまでの間に49カ所に立ち寄り、いくつかのプロジェクトに参加しました。同時に、ピエールは木工への情熱を磨き、新しい技術を発見していきました。
1951年12月、ピエールはパリに戻り、左岸のセラーバーやカフェで生活していましたが、そこで生涯の伴侶となるニコルと出会いました。そして、1955年8月5日、二人は南米に旅立ちました。アンティグアのスペイン植民地時代の名残、アステカの遺跡、マヤの神殿、メキシコのグアイマス、馬に乗ったカウボーイ、ロデオショー、バーベキューや食事、アリゾナの星空の下、キャンプファイヤーで焼く蛇の柔らかい肉など、美しい風景と思いがけない出会いを楽しみました。
 

友人との出会い

旅の軌跡
1956年初め、ピエールはアリゾナ州フェニックスでポール・コーズに迎えられました。コーズの手助けもあり、ピエールは建築事務所Lescher & Mahoneyに就職することができました。画家、作家、旅行家、民族学者であるポール・コーズは、ネイティブ・アメリカンの知識と現地語に精通していることで知られていました。ニコルとピエールは、コーズの魅力的な世界に引き込まれ、その旅の途中でロマン・ゲイリーと出会い、友情を育んでいきました。それは、彼らの人生にとって極めて重要な時間でした。
ピエールは、Lescher & Mahoneyで、アリゾナ・カレッジの学生寮の設計に携わっていました。クライアントとの打ち合わせ、現地視察、商談など、ピエールのキャリアにとって重要な経験となりました。1956年、長男のニコラが生まれ、経済的に苦しくなると、ニコルとピエールは、北へ向かうことにしました。アリゾナからカリフォルニア、オレゴン、オハイオ、モンタナ、ワイオミング、ダコタ、ミネソタと渡り、デトロイトに到着しました。ここで、友人からニューヨークに行ってみないかと誘われ、ニューヨークでの滞在は決定的なものになりました。大西洋横断の旅はこうして終着点にたどり着いたのです。

帰国後、事務所を設立

アパートで暮らすシャポー
大西洋横断を経て、1956年の秋、シャポー一家はパリに戻り、小さなアパートで暮らしました。当時のフランスは、戦後の巨大な復興計画を経て安定期に突入し経済成長は比較的緩やかなものでした。このような状況の中で、ピエールは、海外での発見に触発され、独自の世界観を築き上げることで成功への道を切り開いていったのです。
1957年、ピエールは建築コンサルタントとインテリアデザイン事務所であるSociété Chapoを設立しました。そして立て続けに1958年には、5区のオピタル大通り14番地にギャラリーをオープンしました。このギャラリーは、ピエールが生前だけでなく、1987年の死後もデザイナーとして大きな注目を浴びるきっかけとなり、ピエールの歴史の中で特別な意味を持ちます。ピエールは、わずかな資金で建てたこのギャラリーの運営に多大なエネルギーを注ぎました。資金繰りに頭を悩ませることも、仕事を獲得するために時間をかけて作成した数々の見積書も、若き起業家の鋼鉄の意志をくじくものではありませんでした。

生産部門を立ち上げる

アパートで暮らすニコル
1958年から1962年にかけて、ピエールの最初の作品が生まれました。ギャラリーの顧客はすぐに常連となり、インテリアデザインを依頼するようになりました。ピエールは、増え続ける注文に応えるため、生産部門を立ち上げました。
ニコルの父親は、パリ郊外のクラマルで小さな電話ボックスの設備会社を経営していましたが、ピエールに「そこに生産工場を作ればいい」と言いました。ピエールがトレーシングペーパーに描いたデザインは、クラマルで鉋(かんな)をかけ、鋸(のこ)で削り、ほぞを作り、家具に仕上げられていきました。
ピエール・シャポは、そのキャリアを通じて、現代デザインへの関心と、伝統的な職人技への愛着を併せ持っていました。ピエールにとって、木は常に、その単純な素材感以上のものを表現するものでした。また、ル・コルビュジエの黄金比の研究、バウハウスのクリーンな美学、フランク・ロイド・ライトのバランスのとれたラインのファンであったピエールは、精密で調和のとれた建築を目指しました。

ニコルの協力

ニコル
1950年代後半からは、ギャラリーで他のデザイナーの作品を紹介するようになりました。ニコル・シャポはテーブルウェアやテキスタイルデザインに強い関心を持ち、ギャラリーに展示するアーティストや陶芸家を厳選しました。また、現代作家による伝統的なタペストリーや絨毯のセレクションも行っていました。
シャポー家の本棚には、社会・文化人類学、民族学、民俗芸術など、さまざまなテーマの貴重な本がたくさんありました。ニコルは、その飽くなき好奇心と知識欲を持って、ピエールの家具、特にベンチやソファ、チェアのレザーの生地や素材選びにセンスの良い調和を示しました。インテリアデザイナーとしての彼女の仕事には、数々の旅から得た、民族学的な側面もあるのです。

「48x72」

「48x72」
ピエールがデザインしたチェアの革新的な組み立てシステムと構造の知性は、1960年代にその名を轟かせました。1964年、ピエール・シャポは「48x72」という組み立てシステムの特許を申請しました。その原理は、長さは違っても厚さはすべて同じ「48×72」の規格でカットされた木材を組み立てることにあります。このユニークな手法により、組み立ての手間を省き、接合部を調整することで、構造やボリュームを自在に作り上げることができるようになりました。
ピエール・シャポ自身の言葉を借りれば、彼のアプローチの原動力となったのは、「素材、形、機能」の3つの建築原則です。「48x72」システムには、採用した素材の品質、ボリュームを生み出すための厳密さ、そして実用的な家具をデザインするために常に払われた配慮に基づく、デザイナーの精神が集約されています。

アルザスの家具職人との出会い

「R08」
1966年、ピエールは政府による土地収用によって、クラマルの工房をリュベロン地方のゴルドにある元酪農場に移さなければならなくなりました。家具の生産は2年間低迷し、財政も悪化しました。Société Chapoは設立以来最大の危機に瀕していたのです。 1968年、パリの家具見本市「サロン・ド・ムーブル」で、ピエールはアルザスの家具職人セルツ家と出会い、その仕事に感銘を受けます。そして、「R08」のキャビネットの製作をセルツ家に依頼することにしました。このときの満足度の高さが、1970年代初頭まで続いたデザイナーとメーカーとのコラボレーションの始まりとなりました。ピエールは、ゴルドの研究所の隣にキャビネット製作のアトリエを構え、ここで彼は、新しいデザインや特別な注文のためのプロトタイプを開発しました。

「L’Arbre」

「Converging-lines」
パリとゴルドの間の過渡期にピエールはほとんど作品をデザインしませんでしたが、幾何学と遠近法を探求することに時間を費やしました。また、1969年には、木材の接合と組み立ての研究をさらに進め、その結果、革新的な技法を開発することになりました。 その一方で、アルザスの家具メーカー、パレ社やドモワイヤン社と知り合い、1971年には経済的利益団体「L’Arbre」が誕生しました。L’Arbreのメンバーである4つのパートナーのいずれかがが注文を受けると、その注文はグループに送られ、そのモデルの仕様を登録している工房で製作されることになります。製造元はモデルを作って売ることで報酬を得ることができ、ピエールは1点ごとにロイヤリティを受け取りました。この仕組みは、1970年代後半まで続きました。ピエールはこの仕組みによって、より多くの作品を販売できるようになりましたが、何よりも新しいモデルの研究とデザインに集中することができるようになりました。

「Converging-lines」

「T21」Converging-lines
1971年から1976年にかけて、ピエールは「素材、形、機能」という同じ信条のもと、黄金比を計算した試作品や、無垢材を使用し暮らしやすさを追求した製品を生み出しました。
テーブルとチェアの有名な「Converging-lines」(T21、T35、S31、S34)はその研究の成果です。木製の脚部を収束させ、垂直性と傾斜角によって強いバランスを保つ仕組みです。 さらに、アルザスの家具職人とのコラボレーションにより、S28、S35、S38をはじめとする伝統的で機能的な家具を再提案しました。これらのシリーズは、ピエールのクリエイティブな世界において大きな転機となりました。

「Chlacc」システム

「S45」Chlaccを用いたチェア
家具メーカーとの7年間のパートナーシップの後、ビジネスは順調に進み、ピエールの家具はフランス、ベルギー、ドイツ、オランダ、スイスの各地に流通するようになりました。 ピエールは、物流や管理業務にも時間を割きましたが、ほとんどの時間を新しいデザインの研究に費やしました。1970年代末、ピエールは木工技術の進化に着目します。
ピエールが開発した独自の木材接合技術「Chlacc」は、従来の製法のように長方形の木片を使うのではなく、正方形の木片を用いることで機械抵抗を高めました。Chlaccは、これまでにない斬新なデザインで、特別なヴォリュームを生み出すことを可能にしたのです。

「GO」コレクション

「GO」コレクション
1981年、ピエールはいち早くコンピュータを導入しました。当初はトレーシングペーパーを使用していましたが、1983年にシャルコー病で運動能力を失ったため、コンピュータ・ソフトウェアに移行したのです。1980年代前半にデザインされた家具は、驚くほど独創的で、コンピューターツールの使用と工房の機械の技術的進化により、洗練された曲線のアングルや成形パネルのエッジを開発することが可能になったのです。
GOコレクションは、ピエールにとっての腕の見せ所であり、不可逆的に身体を支配しつつある病気への反抗の行為でした。精神的な能力には全く変化がなかったのです。1987年1月、ピエールは家族に囲まれながら息を引き取りました。

「S24」

「S24」
1967年、ピエールは友人のHIroshi NkajimaのためにS24をデザインしました。すっきりとしたデザインと高い剛性を実現したモデルです。装飾的な要素は、座枠と脚の間にある補強材だけで、六角ネジが見えるように加工されています。レザーのシートは、丁寧に編み込まれたコードの上に張られています。eelでも販売したことのあるモデルです。

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出典:「PIERRE CHAPO」 Magen H Gallery

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