Hugues Steiner

ユーグ・シュタイナー|1926 - 1991


略歴

若き日のユーグ・シュタイナー

ユーグ・シュタイナーは、フランスの大手家具メーカーの一つ、Steiner社の2代目社長兼デザイナーである。
ヒトラーによるユダヤ人迫害によって家族を失うも、不屈の精神と類い稀な経営センスによって、亡き父の残したStainer社を大手家具メーカーへと成長させた。
特に、「bow-wood」 と呼ばれる曲木技術を用いたシリーズのチェアには、自身でデザインしたものも含まれ、人気を博した。

1926年、パリで生まれる

ユーグ・シュタイナーは、1926年9月4日、パリ12区、フォーブル・サン・アントワン通り242番地でクラブチェア(革張りのアームチェア)を制作するユダヤ人の両親の元に生まれました。
父、チャールズ・シュタイナーはル・コルビュジエの機能主義とバウハウスの原則に影響を受け、1937年に、Etienne Henri-Martin(1905-1997)と協力してSK140アームチェアをデザインしたことで知られます。
  ユーグ・シュタイナーの幼少期に関する記述はありませんでしたが、高校はパリ9区にある中産階級の人々が通うLycée Condorcet(リセ・コンドルセ:パリで最も古い4つの高校のうちの1つであり、また最も権威のある学校の1つでもある)で学んだそうです。

ホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を生き抜く

1942年6月、ユーグ・シュタイナーはナチス・ドイツによってパリ北東のドランシー収容所に強制収容されました。1943年3月25日の輸送船第53号で、ポーランド東部のソビボル絶滅収容所(ユダヤ人絶滅を目的とし20万人から30万人が殺害された)に強制送還される途中、同じくユダヤ人のシルヴァン・カウフマンによる助けで列車から脱出することに成功しました。
しかし再び捕まり、ポーランド南部に設置されたアウシュビッツ強制収容所(最大規模の絶滅政策が行われ、およそ110万人が殺害された)に送還されると、 彼は、ヤヴォルツノ労働キャンプ(石炭採掘などの労働を強いられ、劣悪な環境下で数千のユダヤ人が亡くなった)を生き抜き、死の行進(大戦末期の1945年、強制収容所の囚人は厳しい監視の下で、アウシュビッツ強制収容所からドイツ国内の収容所まで長い距離の移動を強いられた。
途中多くのユダヤ人が護衛兵によって虐殺された)の間に再び逃亡して、ユダヤ人としての奇跡の生還を果たしました。
母、マルグリット・エフレイムと母方の祖父サロモン・エフレイムは、1942年9月にアウシュビッツに送還され、同年10月に死亡しました。

Steiner 社の2代目社長となる

ホロコーストから奇跡の生還を果たしたユーグ・シュタイナーは、ベルリンに数カ月滞在した後、父親を探すためにフランスに戻りました。
再会を果たすも、1948年に父が亡くなると、まだ20歳そこそこのユーグ・シュタイナーは、たった一人で、家業を継がなければならなくなりました。
常人ならばとっくに心折れてしまうところでしょうが、聡明で商業的センスに優れたユーグ・シュタイナーは違いました。
父親の遺したSteiner社の二代目社長となってすぐに経営を上向かせたのです。この逆転劇の裏には、Steiner社の象徴、Bow-woodシリーズの登場が隠されています。

Bow-wood シリーズの誕生

Bow wood chair
/ Hugues Steiner
1940年代末、ユーグ・シュタイナーは、曲木加工を施した椅子とテーブルをデザインし、パリ近郊のクローヌにある工場で製造し販売しました。
この曲木加工という技術は、ドイツ生まれの家具職人、ミヒャエル・トーネットが1830年代に発明した技術で、既に特許が切れていたため、ヨーロッパ各地にこの技術の権利を取得した工場がありました。
ユーグ・シュタイナーもまた、ここに目をつけたのでした。シャーベットカラーのプラスチックで覆われたこの家具は、モダンで安価な家具を求める若い世帯に好まれたそうです。こうしてた「Bow-wood」シリーズは誕生したのでした。
この、シリーズのもう一つの有名な作品として後脚を真鍮の金具で止めたものがあります。これは、オランダのデザイナーWilhelm Von Bodeのスケッチを元にユーグ・シュタイナーがデザインし製造したものでした。この椅子は後にSteiner社のベストセラーとなりました。

ピエール・ガーリッシュとのコラボ

SK660
ユーグ・シュタイナーはデザインの才能もさることながら、その経営手腕も並はずれたものがありました。
bow-wood シリーズでの飛躍から時を待たず、すぐさま多くの名デザイナーとコラボレーションを始めたのです。
例えば、ユーグ・シュタイナーと同じ年に生まれた、フランスのミッドセンチュリーを代表するデザイナー、ピーエル・ガーリッシュ(1926-95)もその一人です。特に「SK660」は合理的なデザイン性でSteiner社のイメージに大きな影響を与えました。
メタルフレームにDunlopillo社(フランスの寝具メーカー)のクッションを組み合わせたシリーズの基本モデルは、肘掛けをつけるとアームチェアや2人掛けソファに変身します。その完璧なまでに軽やかな美しさは、アメリカ、イタリア、北欧で展開され人気商品となりました。

A.R.Pとのコラボ

1954年、Steiner社はA.R.P (ピエール・ガーリッシュ、ミシェル・モルティエ、ジョセフ・アンドレ・モットの3名によるデザインユニット。)とのコラボレーションでメーカーとしての地位をさらに高めます。ここでは、その作品のいくつかを掲載します。

Steiner × A.R.P





デザイナーとのコラボレーションは続く

SK660
1957年のA.R.P解散後も、ユーグ・シュタイナーはA.R.Pのメンバーと別々に仕事を続けました。
ミシェル・モルティエは、クッションを交換することで6通りの組み合わせが可能なアームチェア「SF 103 Triennale」などをデザインしています。
また、ユーグ・シュタイナーの若き異母弟で、école Boulle(エコール・ブール校、パリ12区にある応用美術の高等学校)に通い、家具デザインを学ぶも、やめて絵画に専念したアーティストであるtがデザインしたものもあります。

Steiner社の売却

1960年代、ノワジー=ル=グラン に工場を建設したユーグ・シュタイナーは、オフィス家具部門Sedia Steiner(セディア・シュタイナー)を立ち上げ、事業を発展させました。また、Kwok Hoi Chan(クォック・ホイ・チャン、1939-1987)など、新しいデザイナーにも声をかけて、世代交代への対応を急ぎました。
しかし70年代から80年代にかけて家具業界を揺るがしたオイルショックが、同社の事業拡大を鈍化させました。残念ながら、1988年1月、ユーグ・シュタイナーは、20代前半からおよそ40年に及び、歩みを共にしてきたSteiner社をコーバル・インダストリーズに売却することとなりました。

1991

歴史上最悪の大量虐殺に巻き込まれるも、困難に怯むことなく、その類い稀な経営力とデザイナーとしての才を発揮し続け、デザイン界に多大な功績を残したユーグ・シュタイナーには1991年3月15日、この世を旅立ちました。

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出典:
・https://phdn.org/archives/holocaust-history.org/klarsfeld/French%20Children/html&graphics/T1245.shtml
・https://www.maisonapart.com/edito/amenager-decorer/salon-salle-a-manger-bureau/les-pieces-cultes-de-pierre-guariche-reeditees-7816.php

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