René Gabriel
ルネ・ガブリエル|1899 - 1950
略歴

パリのメゾン・アルフォール生まれ。装飾芸術家・デザイナー。
1925年にパリで開催された近代工業・装飾芸術国際博覧会では、フランセーズ国際大使室のChambre de Jeune Fille のデザインを担当。第二次世界大戦後の1939~45年にかけて、建築家オーギュスト・ペレから家具のデザインを依頼され、ル・アーヴルの再建に携わり、大きな影響力を持つようになる。装飾芸術家協会の会長や、国立装飾芸術高等学校の工房長を務め、教育者としても尽力した。
1951年には、彼に敬意を示し、大量生産が可能なモダンなデザインに贈られるルネ・ガブリエル賞が創設された。マルセル・ガスコアン、ピエール・ゴーティエ・ディレイ、ピエール・ガーリッシュ、ジャック・オビーユ、ルネ=ジャン・カイエット、アンリ・メイヤーなど著名なデザイナーが受賞し、現在もフランスのデザイナーに授与されている。
彼の人生は、10年に及ぶ世界大戦と、多くの経済危機、さらに3年間の兵役、不治の病を抱えた3年間など、激しく苦しい半世紀に及んでいます。短い人生の中で、彼は数々の苦しみを間近に見てきました。 そんな困難の中でも腐ることなく前を向き続け、中流階級の居住環境を改善することを最重要視し、現実に大多数の人々の日常に美をもたらし続けたルネ・ガブリエルの生涯とその作品について詳しく紹介していきます。
職人夫婦の息子ガブリエル

ガブリエルの故郷、
メゾン・アルフォールの景色
ガブリエルは、父と同じように職人の道を歩み、小学校の手工芸科に入学しました。1911年に卒業すると、3区サント・エリザベート通り12番地にあったジェルマン・ピロン市立学校に入学し3年かけて応用美術を学びました。
この頃のフランスでは、実用品、とりわけ量産品の質の低さに対しての問題意識が広く共有されていました。このような時勢に合わせ、ジェルマン=ピロン校をはじめ、フランスの多くの応用美術学校は、美術産業に従事する若者の技術を向上させるために、図法幾何学を中心に、建築、家具、装飾品などのデザイン領域を徹底して教育しました。
ガブリエルと国立装飾芸術学校

ENSAD(現在)
ENSADは芸術分野のエリート養成機関であり、入学条件がとても厳しい教育機関です。そんな所に助成金を取得して入学を許されたのですから、ガブリエルの実力は目を見張るものがあったのでしょう。当時のENSADでは、時代の潮流に合わせ、アール・ヌーヴォー(19世紀末から20世紀初頭にかけて開花した花や植物などの有機的なものをモチーフにする美術運動)の自然な形、建築の幾何学的な線(ウジェーヌ・ヴィオレ・ル・デュックの合理主義の伝統に従って伝えられた)など、異なるモデルの混成に基づいていました。
1916年に国立装飾芸術学校を卒業したルネ・ガブリエルでしたが、彼には、偉大な装飾家や高名な職人の工房に入るような経済的な余裕も人脈もありませんでした。絵の才能と実践的なノウハウが活かせる分野で、収入を得るための活動をしなければいけませんでした。
ガブリエルと二人の友人

ガブリエルとポル・ラブがデザインしたセットと衣装(1918)
そしてガブリエルは、友人であり同僚でもあるポル・ラブとアパートをシェアすることになります。彼はパリのエコール・デ・ボザール(350年間以上にわたる歴史があるフランスの高等美術学校。建築、絵画、彫刻の分野に芸術家を輩出してきた)を卒業した若手で、ガブリエルとは違って既に新進気鋭の若手装飾家としてパリの地でその名を知られていました。この最初の友人は、ガブリエルに強い影響を与えました。グラフィックの手法としては、アールヌーボーの曲線の自由さを尊重しつつ、線の幾何学性を強調し、昔の版画を思わせるような丁寧な作画が特徴でした。
この時、ルネ・ガブリエルとポル・ラブは、批評家として同じく劇場の舞台裏に出入りしていたレオン・シャンスレルと知り合いました。彼は文学をこよなく愛しファッションやエンターテインメントに関する記事を執筆していました。
わずか18歳の時、ガブリエルはポル・ラブやレオン・シャンスレルといった強烈な個性の持ち主と親しくなり、彼の想像力を形成することになったのでした。
戦争と芸術

シャンスレルのテキストとガブリエルの挿絵(1920)
休戦協定が結ばれた後も、ガブリエルは、若さ故に国を守れなかった悔しさから、現実世界とは離れた子供の頃の幸せな記憶を拠り所にする絵の世界を壁紙にデザインしました。意外にも、この新しい芸術性が彼に、初めての装飾家としての成功を呼ぶことになります。1919年、第11回パリ見本市でガブリエルが発表した壁紙等の作品は商業的に成功を収めたのでした。
このタイミングでガブリエルはシャンスレルの協力もあり、自身のブランド「Les Papiers Peints de France」を立ち上げました。
兵役を経て、1920年に7区のソルフェリノ通り3番地に「À l'enseigne du Sansonnet」という店を構え、仕事を再開しました。この地区は、芸術家、実業家、政治家などがよく訪れる場所で仕事を得るにはもってこいの場所でした。店のすぐそばにアパートを構えるシャンスレルがガブリエルに場所選びのアドバイスをしたのは確かで、彼は顧客を見つけるなど、経済的な援助も惜しみませんでした。20歳の才能ある少年は、13歳年上のこの恩師に生涯忠誠を誓い。常に彼の近くに住み、彼の移動や旅に同行し、ほぼ体系的に一緒に仕事をしました。
家具デザインの始まり

ガブリエルがデザインした少女用の部屋(1919)
他の工業製品が風景の中でますます激しく自己を主張する中で、ガブリエルの作品は一線を画すものでした。牧歌的な雰囲気を漂わせつつも、最優先事項として手の届く価格で製品を届けるという彼の作風はここで決定づけられたのです。
1930年代:経済的な家具デザインの研究

Élémants RGの広告の一部
ガブリエルは、価格の著しい引き下げにより、「貧乏人のアンサンブル」という名声を得ることができました。彼は、これまで無視されてきた、危機の影響を直接受けた、狭い家に住む、限られた予算で家具をそろえなければならない若い一般のフランス人という客層に、率直に語りかけたのです。
mobilier d'urgence”「応急の(緊急の)家具」

SCPのために1941年に製造された非常用椅子
左:モデル103、右:モデル401
ルネ・ガブリエルが、1941年3月27日にSCP(Service des constructions provisoires)の責任者の承認を得て、初めて非常用家具を開発したのは、特にこのような困難な状況においてでした。まず、標準的な住居番号74-2のバラックをイメージし、ミニマムなテイストの中に小さな理想郷のような佇まいを持たせました。
サイドボード100型

C100、国家事務局が仮設建築物の家具に選んだもの
eelで過去販売したRené Gabriel の家具たち
“mobilier d'urgence” ダイニングチェア

幅:約43cm
奥行:約45cm
座面高さ:約44cm
高さ:約80cm
キャビネット

“mobilier d'urgence”と同様に様々なバリエーションや種類が存在します。
幅:約185cm
奥行:約50cm
高さ:約148cm
出典:
・René Gabriel: Des Arts Décoratifs À La Reconstruction