Charlotte Perriand
シャルロット・ペリアン|1903 - 1999
フランスの建築家、デザイナー
服飾職人の両親の元に生まれ、様々な素材に囲まれて育ちます。パリの装飾美術中央連合学校(エコールUCAD)で学び、1926年に卒業。自らアトリエを構え、数々の展覧会に家具を出品。 1927年サロン・ドートンヌに出展した「屋根裏のバー」が大反響を巻き起こします。この作品がきっかけとなり、ル・コルビュジエのアトリエへ入所。これが運命的な出会いとなり、シェーズロングを始め、数々の名作をコルビュジエとともに世に送り出しました。1940年、アトリエで一緒に机を並べていた坂倉準三の誘いで、輸出工芸指導の顧問として日本へ招かれます。1年余りの滞在期間に日本各地を柳宗理の案内でまわり、日本の伝統的な暮らしや美意識に深い感銘を受け、その後の作品に強く反映されています。
服飾職人の両親の元に生まれ、様々な素材に囲まれて育ちます。パリの装飾美術中央連合学校(エコールUCAD)で学び、1926年に卒業。自らアトリエを構え、数々の展覧会に家具を出品。 1927年サロン・ドートンヌに出展した「屋根裏のバー」が大反響を巻き起こします。この作品がきっかけとなり、ル・コルビュジエのアトリエへ入所。これが運命的な出会いとなり、シェーズロングを始め、数々の名作をコルビュジエとともに世に送り出しました。1940年、アトリエで一緒に机を並べていた坂倉準三の誘いで、輸出工芸指導の顧問として日本へ招かれます。1年余りの滞在期間に日本各地を柳宗理の案内でまわり、日本の伝統的な暮らしや美意識に深い感銘を受け、その後の作品に強く反映されています。
幼少期と学生時代
ここではペリアンの幼少期と学生時代について深掘りしていきます。
素材に囲まれた幼少期
紳士服の裁断を生業とする父と婦人服の仕立て屋で働く母のもとに生まれたペリアンは、幼い頃から素材に囲まれて過ごしました。また農家をしている叔父の影響もあってか、自然への深い愛情を抱く少女でした。父母からは、ことあるごとに『work is freedom』という言葉をかけられ幼少期を過ごしたそうです。そんな幼少期を過ごした彼女ですから、クラフトマンへの尊敬の念を覚えるのは至って普通のことでした。
10歳の時、盲腸で入院をしたペリアンは、雑多なものでいっぱいだった両親のアパートとは対照的な病院のその簡素な空間を見て、「空間の余白にこそエッセンスがある」と悟りました。驚くべきことに、これはまだ彼女が岡倉天心の『茶の本』を読む以前のことでした。
第一次世界大戦中はサヴォア県に父親の家族と滞在しました。ここで雪に覆われた山頂を目にした若きペリアンは後にフランス最大のスキーリゾートを建設することになります。この話はまた後ほど. . . 。
10歳の時、盲腸で入院をしたペリアンは、雑多なものでいっぱいだった両親のアパートとは対照的な病院のその簡素な空間を見て、「空間の余白にこそエッセンスがある」と悟りました。驚くべきことに、これはまだ彼女が岡倉天心の『茶の本』を読む以前のことでした。
第一次世界大戦中はサヴォア県に父親の家族と滞在しました。ここで雪に覆われた山頂を目にした若きペリアンは後にフランス最大のスキーリゾートを建設することになります。この話はまた後ほど. . . 。
パリ装飾美術連合学校での学生時代
ペリアンがエコールUCAD在学2年目に描いたものです。
絵を描くことに優れ、劇場を愛し、ピアノを弾くことが大好きだったペリアンは、叔母の助言を受けて、アンリ・ラパンがアートディレクターを務めるパリの装飾美術中央連合学校(エコールUCAD)に、助成金を獲得して入学しました。
在学一年目の彼女の作品は、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる装飾性を特徴とするアール・ヌーヴォーに影響を受けたとみえるものが多くありました。しかし同時に、当時、流行り始めた幾何学的な形への傾向を反映した壁紙やタイルもデザインしていたようです。その後、彼女は1925年のパリ万国博覧会で、展示のデザインに関わります。そこで彼女は、コルビュジエのデザインしたパビリオン、『エスプリ・ヌーヴォー』を目にします。この出会いを通じて前衛的な見方を覚えた彼女は、後に、この時のことを自身の伝記の中で『I was suruprised by it, but not amazed』と振り返りました。コルビュジエの建築物に対し、若干22歳の彼女がここまで言えるのは末恐ろしいです。
在学一年目の彼女の作品は、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる装飾性を特徴とするアール・ヌーヴォーに影響を受けたとみえるものが多くありました。しかし同時に、当時、流行り始めた幾何学的な形への傾向を反映した壁紙やタイルもデザインしていたようです。その後、彼女は1925年のパリ万国博覧会で、展示のデザインに関わります。そこで彼女は、コルビュジエのデザインしたパビリオン、『エスプリ・ヌーヴォー』を目にします。この出会いを通じて前衛的な見方を覚えた彼女は、後に、この時のことを自身の伝記の中で『I was suruprised by it, but not amazed』と振り返りました。コルビュジエの建築物に対し、若干22歳の彼女がここまで言えるのは末恐ろしいです。
卒業からコルビュジエのアトリエ入所まで
ここではエコールUCAD卒業年からコルビュジエのアトリエに入所するまでについて深掘りします。
Coin de salon での展示
ペリアンは1926年、エコールUCADの二人の師の助言と両親の支援を受けて、
“Coin de Salon” という展示会に“Corner of living” と題し、ライティングデスク、テーブル、アームチェアを展示しました。アームチェアに対しては、「木ではなく金属を使用したほうがよかった」といった批判もありましたが、ほとんどの批評家からは良い評価を受けました。ただこのアームチェアに木を用いたのは、実は、師のアドバイスを受たためでした。この展示で一定の成功を収めた彼女でしたが、のちの自伝で当時を、「彼ら(Rapin,Defrene)は装飾芸術を表現してきたという事実に創造性を制限されていた」と振り返ります。
結婚
ペリアンは卒業後、23歳の時、両親の友人であり20歳年上のパーシー・ショルフィールドと初めての結婚をしました。新婚の二人はサン・シュルピス教会に面したセーヌ川の左岸にある古い写真スタジオを借りて生活しました。そこでは芸術教育の制約から解放されて、初めて自分だけでデザインできるという幸せを感じながら、寝室のベッドの設計に取り組みました。
サロン・ドートンヌでの展示
1927年、弱冠24歳で《屋根裏のバー》を発表しセンセーショナルなデビューをはたしました。住宅にしつらえられたカウンター式のキッチンバーは、調理台やシンクが外から見えないつくりになっており、徹底して機能的であると同時にすっきりとしたシンプルなスタイルを可能にしました。この《屋根裏のバー》を見てペリアンを気に入ったル・コルビュジエは、彼女を自身のアトリエに招き入れ、ル・コルビュジエと彼のいとこであるピエール・ジャンヌレとの協働が始まりました。
コルビュジエのアトリエ在籍時代
ここではコルビュジエのアトリエに在籍していた頃の彼女の作品について深掘りします。
Fauteuil pivotant(後のLC7)
1927 Fauteuil pivotant
metal and leather
70×57×54
コルビュジエのアトリエに入所しすぐに主要メンバーの一人になったペリアンですが、実はアトリエに入所する以前に、後にLC7という名前で20世紀のアイコン一つに数えられる“Fauteuil pivotant”をデザインしていました。この回転式の椅子は、前述した、自身のサン・シュルピスにあるスタジオの食卓のためにデザインしたそうです。
当時のペリアンは自動車産業にデザインのインスピレーションを受けており、また、科学的管理法(20世紀初頭にアメリカのF・テイラーが提唱した工場の生産管理における方法論で作業の近代化、効率化に大きく貢献したと評価されている)を自身の家具の設計に適用しました。
ペリアンは当時のジャーナリストに、「家具の美しさは要素の合理的な構成に起因しなければならない」と語ったそうです。
当時のペリアンは自動車産業にデザインのインスピレーションを受けており、また、科学的管理法(20世紀初頭にアメリカのF・テイラーが提唱した工場の生産管理における方法論で作業の近代化、効率化に大きく貢献したと評価されている)を自身の家具の設計に適用しました。
ペリアンは当時のジャーナリストに、「家具の美しさは要素の合理的な構成に起因しなければならない」と語ったそうです。
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出典: ・Charlotte Perriand: Inventing a New World