紳士服の裁断を生業とする父と婦人服の仕立て屋で働く母のもとに生まれたペリアンは、幼い頃から素材に囲まれて過ごしました。また農家をしている叔父の影響もあってか、自然への深い愛情を抱く少女でした。父母からは、ことあるごとに『work is freedom』という言葉をかけられ幼少期を過ごしたそうです。そんな幼少期を過ごした彼女ですから、クラフトマンへの尊敬の念を覚えるのは至って普通のことでした。
10歳の時、盲腸で入院をしたペリアンは、雑多なものでいっぱいだった両親のアパートとは対照的な病院のその簡素な空間を見て、「空間の余白にこそエッセンスがある」と悟りました。驚くべきことに、これはまだ彼女が岡倉天心の『茶の本』を読む以前のことでした。
第一次世界大戦中はサヴォア県に父親の家族と滞在しました。ここで雪に覆われた山頂を目にした若きペリアンは後にフランス最大のスキーリゾートを建設することになります。この話はまた後ほど. . . 。
パリ装飾美術連合学校での学生時代
ペリアンがエコールUCAD在学2年目に描いたものです。
絵を描くことに優れ、劇場を愛し、ピアノを弾くことが大好きだったペリアンは、叔母の助言を受けて、アンリ・ラパンがアートディレクターを務めるパリの装飾美術中央連合学校(エコールUCAD)に、助成金を獲得して入学しました。
在学一年目の彼女の作品は、花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる装飾性を特徴とするアール・ヌーヴォーに影響を受けたとみえるものが多くありました。しかし同時に、当時、流行り始めた幾何学的な形への傾向を反映した壁紙やタイルもデザインしていたようです。その後、彼女は1925年のパリ万国博覧会で、展示のデザインに関わります。そこで彼女は、コルビュジエのデザインしたパビリオン、『エスプリ・ヌーヴォー』を目にします。この出会いを通じて前衛的な見方を覚えた彼女は、後に、この時のことを自身の伝記の中で『I was suruprised by it, but not amazed』と振り返りました。コルビュジエの建築物に対し、若干22歳の彼女がここまで言えるのは末恐ろしいです。
ペリアンは1926年、エコールUCADの二人の師の助言と両親の支援を受けて、
“Coin de Salon” という展示会に“Corner of living” と題し、ライティングデスク、テーブル、アームチェアを展示しました。アームチェアに対しては、「木ではなく金属を使用したほうがよかった」といった批判もありましたが、ほとんどの批評家からは良い評価を受けました。ただこのアームチェアに木を用いたのは、実は、師のアドバイスを受たためでした。この展示で一定の成功を収めた彼女でしたが、のちの自伝で当時を、「彼ら(Rapin,Defrene)は装飾芸術を表現してきたという事実に創造性を制限されていた」と振り返ります。